旅館明治について
―About Ryokan Meiji
太宰が筆をとり、
湯に癒された宿
太宰治が二度にわたり執筆のために逗留した、湯村温泉の「旅館明治」。
静けさとぬくもりに満ちたその空間が、現代の旅人のために、新たに生まれ変わりました。
甲府・湯村温泉の旅館明治は、太宰治が創作に選んだ宿。
信玄公も癒されたと伝わる名湯と、現代的に生まれ変わった洋の客室でくつろぎの時間を。
復活した共同浴場「鷲の湯」や日帰り入浴もお楽しみいただけます。

湯村温泉は、武田信玄ゆかりの「信玄の隠し湯」として知られます。弘法大師空海が開湯したと伝わる古湯で、泉質は傷の治癒に優れるアルカリ性単純温泉。信玄は合戦で傷ついた兵士の療養や自らの湯治のため、城下近くで守りやすいこの温泉を重用しました。温泉寺の僧侶が兵の看護にあたったという伝承も残ります。現在も温泉街には信玄が腰かけたとされる「腰掛石」や、信玄の寄進品を伝える温泉寺などが点在し、戦国の面影を色濃く感じられる地となっています。
弘法大師空海が開湯したと伝わる古湯で、泉質は傷の治癒に優れるアルカリ性単純温泉。
信玄は合戦で傷ついた兵士の療養や自らの湯治のため、城下近くで守りやすいこの温泉を重用しました。
温泉寺の僧侶が兵の看護にあたったという伝承も残ります。
現在も温泉街には信玄が腰かけたとされる「腰掛石」や、
信玄の寄進品を伝える温泉寺などが点在し、戦国の面影を色濃く感じられる地となっています。
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現在の甲府市朝日5丁目に新居を構えた1939(昭和14)年1月から、
九月に東京三鷹に移転するまでの間と言われています。
当時の湯村温泉は、いくつかの源泉をはさんで、
十軒ほどの旅館が建てられていたそうです。
1939年10月に発表された小説「美少女」では、作家と思われる主人公が、
家から歩いて20分ほどの場所にある湯村の大衆浴場で、
16、7歳の美しい少女を見つけます。
浴場は「よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、
日光が充満してゐて、清楚の感じである。」と描かれています。
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旅館に逗留することがしばしばありましたが、
湯村温泉で常宿にしていたのが旅館明治でした。
1942(昭和17)年2月初旬、東京の編集者宛のはがきに、宿の名前を「明治屋」と記し、
「こちらは、朝夕さむくて、閉口してゐます、2月一ぱいは、
ねばらうと思つてゐます。」と書かれています。
滞在中は、創作集『女性』(同年6月 博文館)の校正や、
書き下ろし『正義と微笑』(同年6月 錦城出版社)の執筆など、精力的に仕事に励みました。
また、翌年の1943(昭和18)年3月にも旅館明治に滞在し、
難航していた書き下ろし『右大臣實朝』(同年9月 錦城出版社)の執筆を行っています。
このほか、1943年1月に発表した小説「黄村先生言行録」では、
2月に湯村温泉を訪れて、「古い旅館の一室に自らを閉ぢこめて仕事をはじめ」た主人公が、
仕事を断念して、塩澤寺の厄除地蔵尊のお祭りに行く様子が描かれています。
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小説家の太宰治<1909(明治42)年~1948(昭和23)年 青森県生まれ>にとって、
山梨は、生誕の地青森、終焉の地東京とともに、ゆかりの深い場所です。
太宰は、1930(昭和5)年に東京帝国大学入学のために上京後、
井伏鱒二<1898(明治31)年~1993(平成5)年 広島県生まれ>に師事しますが、
政治活動の挫折や実家からの勘当、芥川賞落選などによって、不安定な精神状態の中、
心中や自殺を図り退廃的な生活を送っていました。
また、急性盲腸炎の手術後、鎮痛剤のパピナールを多用したため依存症となり、
入退院を繰り返していました。
太宰の身を案じた井伏鱒二は、現在の山梨県南都留郡富士河口湖町の御坂峠に建つ
天下茶屋での静養を勧め、太宰は、1938(昭和13)年9月から約二か月間逗留し、
心身の回復に努めました。
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1939(昭和14)年1月、甲府の石原美知子と結婚、
現在の甲府市朝日1→5丁目の借家で新たな生活をスタートさせました。
伴侶との穏やかな生活は、「富嶽百景」「女生徒」「新樹の言葉」など
明るく平明な佳品を生み出しました。
同年九月、東京三鷹に転居した後も山梨をたびたび訪れ、
湯村温泉や美知子の実家などで作品を執筆しています。
1945(昭和20)年7月には、疎開先の妻の実家で甲府空襲に遭いますが、
この体験を、戦後に発表した「薄明」に描いています。
太宰は、再疎開先の青森から1946年(昭和21)年11月、三鷹の家に戻り、
「人間失格」や「斜陽」などの代表作を発表し、文壇の注目を集めましたが、
1948(昭和23)年6月13日、山崎富栄と玉川上水に入水し、19日に遺体が発見されました。
波乱の生涯を送った太宰にとって、山梨は、心身に安定をもたらし、
創作への意欲を蘇らせた再生の地と言えるでしょう。
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太宰治が初めて湯村温泉を訪れたのは、石原美知子と結婚し、現在の甲府市朝日5丁目に新居を構えた1939(昭和14)年1月から、九月に東京三鷹に移転するまでの間と言われています。当時の湯村温泉は、いくつかの源泉をはさんで、十軒ほどの旅館が建てられていたそうです。
1939年10月に発表された小説「美少女」では、作家と思われる主人公が、家から歩いて20分ほどの場所にある湯村の大衆浴場で、16、7歳の美しい少女を見つけます。浴場は「よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満してゐて、清楚の感じである。」と描かれています。
太宰は、執筆に集中したい時、自宅を離れ、旅館に逗留することがしばしばありましたが、湯村温泉で常宿にしていたのが旅館明治でした。1942(昭和17)年2月初旬、東京の編集者宛のはがきに、宿の名前を「明治屋」と記し、「こちらは、朝夕さむくて、閉口してゐます、2月一ぱいは、ねばらうと思つてゐます。」と書かれています。滞在中は、創作集『女性』(同年6月 博文館)の校正や、書き下ろし『正義と微笑』(同年6月 錦城出版社)の執筆など、精力的に仕事に励みました。
また、翌年の1943(昭和18)年3月にも旅館明治に滞在し、難航していた書き下ろし『右大臣實朝』(同年9月 錦城出版社)の執筆を行っています。
このほか、1943年1月に発表した小説「黄村先生言行録」では、2月に湯村温泉を訪れて、「古い旅館の一室に自らを閉ぢこめて仕事をはじめ」た主人公が、仕事を断念して、塩澤寺の厄除地蔵尊のお祭りに行く様子が描かれています。

「走れメロス」や「人間失格」などの作品で知られる小説家の太宰治<1909(明治42)年~1948(昭和23)年 青森県生まれ>にとって、山梨は、生誕の地青森、終焉の地東京とともに、ゆかりの深い場所です。
太宰は、1930(昭和5)年に東京帝国大学入学のために上京後、井伏鱒二<1898(明治31)年~1993(平成5)年 広島県生まれ>に師事しますが、政治活動の挫折や実家からの勘当、芥川賞落選などによって、不安定な精神状態の中、心中や自殺を図り退廃的な生活を送っていました。また、急性盲腸炎の手術後、鎮痛剤のパピナールを多用したため依存症となり、入退院を繰り返していました。
太宰の身を案じた井伏鱒二は、現在の山梨県南都留郡富士河口湖町の御坂峠に建つ天下茶屋での静養を勧め、太宰は、1938(昭和13)年9月から約二か月間逗留し、心身の回復に努めました。
11月中旬に御坂峠を降りた太宰は、甲府で約2か月下宿した後、1939(昭和14)年1月、甲府の石原美知子と結婚、現在の甲府市朝日1→5丁目の借家で新たな生活をスタートさせました。伴侶との穏やかな生活は、「富嶽百景」「女生徒」「新樹の言葉」など明るく平明な佳品を生み出しました。同年九月、東京三鷹に転居した後も山梨をたびたび訪れ、湯村温泉や美知子の実家などで作品を執筆しています。1945(昭和20)年7月には、疎開先の妻の実家で甲府空襲に遭いますが、この体験を、戦後に発表した「薄明」に描いています。
太宰は、再疎開先の青森から1946年(昭和21)年11月、三鷹の家に戻り、「人間失格」や「斜陽」などの代表作を発表し、文壇の注目を集めましたが、1948(昭和23)年6月13日、山崎富栄と玉川上水に入水し、19日に遺体が発見されました。
波乱の生涯を送った太宰にとって、山梨は、心身に安定をもたらし、創作への意欲を蘇らせた再生の地と言えるでしょう。
「太宰治と旅館明治」「太宰治と山梨」の記事は山梨県立文学館のご寄稿によるものです。一部、横書き掲載にあわせて表記を変更しています。